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Progbar®店内壁面を彩るposters





1976 formula 1 world championship in Japan
21st to 24th October 1976
富士 international speedway
岩下 racing 制作 poster
1976 formula 1 world championship in Japan
number 11 McLaren M23/8-2 James Hunt (1976 world champion, 1947-1993) qualify 2nd result 3rd
number 4 Tyrrell project 34/3-2 Patrick Depailler (1944-1980) qualify 13th result 2nd
number 19 Surtees TS19-04 Alan Jones (1980 world champion) qualify 20th result 4th
Tyrrell project 34/3-2 Tyrrell project 34/3-2
学生だった"Progbar"Georgeは予選を観戦する事は出来なかったが、
前夜祭のRockFestivalに沖縄のRockBand「紫」等が出演する予定を聞いて居たので、
学校終了直後に現地に向かったが、前夜祭は警察からの指導で中止となって居た。
中止は事前に発表されて居たのであろうが、僕はしらず非常に残念だった。

雨が降って10月下旬という事もあり寒かったが、
近代化されて今はなき恒例のGrandStand裏屋台で夜を徹した事は、
未成年で酒が飲めないにも拘わらずとても楽しかった。
名古屋から来たという20歳位のrock兄ちゃんと仲良くなり、
rockのはなしを色々し、「LedZeppelinを聴くのは未だ早いよ〜」などといわれた。
其の人、今はどうしているのだろうか?もしみて居たら連絡をいただきたい。

肝心の本戦は、雨にも拘わらず、歴史上に残る凄い物だった。
startは雨により、日没前に競技終了出来る、ぎりぎりの3時過ぎ迄待たされたが、
start時には濃い霧は消えた物の未だ雨は降って居た。

年間王者争い渦中のNikiLaudaが3箇月前にDeutscheで、事故衝撃による
燃料槽の爆発で猛火に包まれ大火傷を負い生死の境をさまよった影響からか、
この雨と霧の状態では競技続行は不可能と自身で判断し2周目に棄権してしまった。

雨に濡れた路面を滑走し路上外に飛び出して戦線離脱する車両や、
雨天用車輪は、滑る雨天時には低温でも軟化し路面を保持するが、
雨が小降りになるにつれ路面が乾いて摩擦が多くなり高温状態で破壊したり、
其の前以っての車輪交換で、競技は先頭集団が二転三転し荒れた。

雨が得意な巨漢VittorioBrambillaが非力なMarch761で先頭を奪取したり、
並み居る外国人の中で星野一義が一時期3位を走行し、
手持ちのSpareTireがなくならなければ(あり得ない!)結果を期待させた。

NikiLaudaに3点差で年間王者争い先行されて居るJamesHuntだが、
今回NikiLaudaは棄権して無得点となったが、
3位以内に入らなければ年間王者とはなれず、
競技中、順位を大幅に後退させる物の、
NikiLaudaの棄権とJamesHunt自身の並々ならぬ不屈の精神と幸運で
ぎりぎりの3位に入賞し、年間王者となった。
現在の様に双方で無線連絡が出来ない時代だったので、競技終了直後、
事の次第を何もしらない彼は、自分が4位だと思い込んで落ち込みながら
競技車でpitに戻って来ると、記者から「君が王者だ」としらされ、
「僕は4位だ。嘘だろう?」といったそうだ。

MarioAndrettiが、この5年前に優勝しながらも
不遇な状況が多かったが、真価を発揮し久し振りに優勝した。
星野一義の活躍と並び、日本人にとって、もう1つ嬉しい事は、
午前中の予選で4位を記録し外国人勢を慌てさせた長谷見昌弘が、
最速周回時間を記録した事である。

其れと特筆すべき事は、
僕は現地に居たので観る事が出来なかったが、
競技開始前の13時から生放送を開始し、
度重なる開始時間遅延発表に迷わされながらも、
競技終了する17時頃迄、公共放送ではないにも拘わらず
生放送を続けて呉れた東京放送に栄誉を与えたい。

僕個人の後日談としては、当時、生録が流行って居て、
僕も日本で初めて開催されるF1の音を録音しようと
microphone、mixer、録音機等の録音機材一式を持っていったのだが、
雨用装備を持って居なかったので、あの雨ですべて壊れてしまった。

会場で貰って、雨の中大事に持って帰って来たのが、下の広告poster。
panelにもしたのに、引っ越しの際、黙って母に捨てられてしまった。
だから今はない。ほかにあと2種類で全部で3種類あった。
formula 1 world championship in Japan



Durex Surtees formula 1 racing team jacket



formula 1 Pacific grand prix 1995
20th to 22nd October 1995
岡山 international circuit (田中 international circuit 英田)
official advertising poster
formula 1 Pacific grand prix 1995
Benetton B195 Michael Schumacher (6 times! world champion) qualify 1st result 1st





1972 富士 masters 250 kilometers
10th October 1972
富士 international speedway
30R hairpin curve
岩下 racing 制作 poster
1972 富士 masters 250 kilometers
number 1 McLaren M6B/50-03 converted to M12 Chevrolet V8 酒井 正 (1942-2002) qualify 7th result 4th
number 12 Lola T290 三菱 1994 cubic centimeters R39B2 永松 邦臣 qualify 5th
number 16 Lola T290 三菱 1994 cubic centimeters R39B2 漆原 徳光 qualify 2nd result 2nd
number 69 GRD S72 Ford Cosworth belt drive A type 生沢 徹 qualify 3rd
number 18 Chevron B21P Ford Cosworth 1799 cubic centimeters 4 valves C type 鮒子田 寛 qualify 6th result 3rd
number 2 Chevron B19 Ford Cosworth 1799 cubic centimeters 4 valves C type (翌年11月24日中野雅晴と共に焼失) 田中 弘 qualify 4th

"Progbar®"Georgeが生まれて初めて生で観戦した自分にとっては記念すべきrace。
このposterも当時所有して居たのだが、矢張り母に捨てられてしまい、最近になって岩下racingで買い直した物。
其の直後に 岩下racingは閉店してしまい、危機一髪であった。
岩下racingだが、店舗は閉鎖したが今でも電話をすれば、もしかしたら希望に対し何らかの対応をして呉れるのではないだろうか。
僕の母はまったくの商売人であり、歴史や物に対し何の関心も執着もなかった。




松田 RX-500
mid-ship 松田 10A 491 cubic centimeters × 2 rotors peripheral port rotary engine
東洋松田工業 image photo
岩下 racing 複写増刷 poster

1970年10月30日から東京都中央区晴海国際見本市会場で開催された第17回東京MotorShowで発表された。
製作台数1台で当然ながら世界中で1台だけが存在する。
銀、黄、緑の3色が存在したがすべて再塗装による物である。
一連の展示を終えると松田の倉庫で保管され衆目に姿を現す事は以来一切なかった。
実車ではないが誰しも1度は黄色い「富みか」34番で目にした事があるであろう。
発表から間もなく40年を迎えるかという2008年に永い眠りから覚め突然復活して披露され世間を驚かせた。
松田 RX-500 1st color
松田 RX-500 2nd color 松田 RX-500 3rd color
松田 RX-500 4th color





豊田 starlet KP47 自社製競技仕様
豊田 137E(3K-R) 1298 cubic centimeters 4 cylinders 16 valves double over head camshaft reciprocating engine
岩下 racing 制作 poster

KP47は基本形状設計がGiorgettoGiugiaroによる。
1973年11月24日 富士 victory 200 miles supporting race minor touring class 初参戦初優勝
競技仕様は5台製作され、現在では1台しか存在しないといわれる。
競技車番号/1 所有者/豊田自動車工業→Tom's 活動年/1976、1977、1979年 競技者/鈴木 恵一、舘 信秀、星野 薫

Touring Special machine 列伝
Touring Special machine 列伝






敬称略





his master's voice

ferret plus
ferret plus




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